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【歴史好き必見】マレーシアはなぜ多民族国家に?
マレーシアの歴史と成り立ちからご紹介

マレーシアの歴史

日本から飛行機で7時間で行ける常夏の国マレーシア。

2021年12月現在約3万人の日本人が暮らし、日本人がとても暮らしやすいと移住先として人気の国ですが、マレーシアが実際にどのように築かれてきた国なのかを知る人は少ないと思います

今回は、マレーシアの現在に至るまでの歴史、そして現在のマレーシアについてご紹介します。

【マレーシアの基本情報をおさえよう!】

まずはマレーシアの基本的情報を、数字と共にお届けします。

マレーシア ツインタワー

【マレーシア基本情報】

国名:MALAYSIA(マレーシア)

面積:約33万平方キロメートル(日本の0.9倍) マレー半島とボルネオ島の二地域に分かれている

首都:KUALA LUMPUR(クアラ ルンプール)

日本との時差:1時間

人口:約3,270万人

民族構成:マレー系69.6%、中国系22.6%、インド系6.8%、その他1%

宗教:イスラム教(国教)、仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、儒教、道教、その他

言語:マレー語、英語、中国語、タミール語

通貨:RM(マレーシア リンギット)/RM1=約26.82円(2021年12月現在)

主な産業:製造業(電気機器)、農林業(天然ゴム、パーム油、木材)、鉱業(錫、原油、LNG)

【イギリスなど諸外国の統治を受けたマレーシアの歴史】

マレーシアが世界の歴史の表舞台に登場し始めるのは、14世紀後半。

世界中で海上貿易が盛んになっていく中、当時マラッカ王国と呼ばれていたマラッカがその立地から貿易港として発展を始めます。

その後、1511年からポルトガル統治、1641年からオランダ統治と続き、そして1786年にペナンがイギリス統治となったことを皮切りに、1896年にはマレー半島のほぼ全域がイギリスの統治下となります。

1941年からの約3年間に及ぶ日本の統治を経た後はまたイギリス統治へと移り、1957年にマラヤ連邦としてイギリスから独立するまで常にどこかの国の統治下にある歴史を歩んできました。

約450年に渡る外国からの統治が続き、そして、特に近代化が進んでいった時期の約170年以上に渡る長いイギリスによる統治はマレーシアという国家や文化形成に多大な影響を与え、独立を果たした今も様々なところにその影響を見ることができます。

その最たるものは、やはり政治や法律に関わること。

マレーシアはイギリスと同じ立憲君主制(議会制民主主義)の国です。マレーシアの全13州のうち9つの州にはそれぞれの州を治めるスルタン(王)がおり、マレーシア全土のラジャ(国王)は、その9名の中から5年に一度、持ち回り制で各州のスルタンによる統治者会議で選出の上、就任します。

そのラジャは政治的な助言や承認を行いますが、実質的な実行権は首相及び、内閣にあります。

教育の場にもイギリスの影響はあり、マレーシアでは成績優秀な子供が幼い頃から実家を離れて全寮制の学校に入学し、大学に入るまで寄宿生活となるスタイルもよく見られます。

これも、イギリス統治時代に教育制度の整備を行う中でイギリスでは当たり前となっていた全寮制スタイルを根付かせたためです。

もちろん寮に入らず自宅から通う公立校も多くありますが、日本と比べると中学や高校で「全寮制の学校に通っていた」というマレーシア人の割合はかなり多く、こんなところにもイギリス文化が根付いていると知ることができます。

【イギリス統治の影響で生まれたマレーシアの文化や習慣】

そして、文化的な面でもイギリス統治時代に根付いたものは色々とあります。

例えば町を歩くと統治されていた頃に建立された異国情緒漂う古く素敵な建物が多いのですが、イギリスの建築文化が色濃く現われている建物もたくさんあります。

Sheng Tai Internationalが物件を所有・運営・開発する世界遺産都市マラッカでは、14世紀後半にマラッカ王国が成立してから、ポルトガル、そしてオランダの統治が長く続き、さらには貿易港として様々な国の文化が入り乱れました。

そのため、マレーシアの中でもペナンと並んで突出して異国情緒漂う素敵な町並みが出来上がりました。

また、イギリス統治時代の1905年に設立されたペラ州にあるMalay College Kuala Kangsar(マレー カレッジ クアラ カンサー)は、多くの政治家や有力者を輩出しているマレーシア随一の名門全寮制男子校ですが、設立当時イギリスで多く見られたグレコローマン様式で建てられた校舎が今も健在です。

マレーカレッジ クアラカンサー イギリス

名門校として有名なことはもちろんですが、この素敵な校舎を目的に観光として訪れる人もいるほどで、学校の設立だけでなく様々な面でイギリス統治の大きな影響を受けていたと言えます。

そして、今やマレーシアを訪れたら楽しみたいことの一つとして必ず挙げられる高級ホテルでのアフタヌーンティー。

これも統治時代にイギリス人達が紅茶やアフタヌーンティーをマレーシアで楽しむようになったことからマレーシア人にもその習慣が根付き始め、統治が終わった今も食文化として残り、そしてさらに進化も遂げている代表例です。

マレーシア アフタヌーンティー

列強諸国によるアジア圏の統治については様々な見方や考え方があるかと思いますが、文化が混在し、そしてさらに新しいものを生み出すという意味で多大な影響力があったことを現在のマレーシアは物語っています。

【世界でも稀!多民族・多宗教国家の成功例マレーシア】

マレーシアを訪れて町を歩くとすぐに気が付くことですが、マレーシアはいくつもの民族、そして宗教が共存して成り立っている国です。そして、様々な民族と宗教が共に暮らしていても大きなトラブルもなく共存を実現している、世界でも珍しい多民族・多宗教共存を成功させている国でもあります。

マラッカ,ウォールアート

基本情報でも触れていますが、主たる国民の構成はマレー系、中国系、インド系、そしてその他の民族となっています。宗教は主にマレー系が信仰するイスラム教を国教としていますが、もちろんそれ以外のヒンドゥー教や仏教、キリスト教など他の宗教の信仰も認められています。

そして、マレー系・中国系・インド系の三大民族以外にも、マレーシアにはたくさんの民族が暮らしています。
例えば、ボルネオ島にあるサバ州のカダザン族、サラワク州のイバン族、ビダユ族、そして、マレー半島のオラン アスリと呼ばれている先住民もいます。
他にも、中国大陸から移住をした華系男性とマレー半島の女性が結婚して生まれたミックスのババ ニョニャまたはプラナカンも、独自の文化を形成しています。
このように、マレーシアには様々な民族、そしてそれぞれの民族が信仰する宗教がたくさんあるのです。

それぞれの信仰によって異なる新年、そして宗教イベントはほとんどの場合祝日になり、イベントの際はお互いの信仰を尊重して仕事のお休みを譲ったり、違う宗教であってもお互いをお祝いの場に招いて共に楽しんだりする様子も当たり前に見られます。

【歴史と共に出来上がった現在の多民族・多宗教国家マレーシア】

隣に暮らす人、会社の同僚、町ですれ違う人が自分とは違うルーツを持つことが当たり前となっている現在のマレーシアですが、現在のような民族混在の日常はマレーシアの歴史と深く関係があります。

もともとその地理的要素から様々な民族が暮らしていたマレー半島ですが、17世紀後半からイギリス統治が進み始めると大量の移民政策が進んでいきます。主に錫産業やプランテーション事業などに従事する中国系やインド系の大量移民が急激に増えていき、現在のマレーシアの民族構成につながる基礎が出来上がったのはこの頃となります。

その後の日本統治時代を経てまたイギリス統治へと戻り、そして今のマレーシアとして国が成立する頃にはすっかり多民族が混在する国家へと変貌を遂げていたわけですが、最初から何事もなく今のような形に落ち着いていたわけではありません。

1950~1960年代には各民族間に横たわる不公平感や制度に対し衝突も起こりますが、教育制度の整備や新しい経済政策の導入によって徐々に平和的な多民族共存の道を歩み始めます。

そして現在では世界で唯一と言ってもいい、多民族・多宗教の共存に成功した国とも言われるほどのマレーシアが誕生しています。

他国のように単一民族状態が長かったとしたら、イギリスの統治が終わってからの短期間で現在のマレーシアのような多民族共存国家に成長することは難しかったかもしれません。14世紀にマラッカ王国ができた頃からすでに地理的要因で多数の民族が混ざり合っていたマレーシアですから、国としても、そして個人単位としても、多民族が共存することの土台がゆっくりと出来上がっていたのではないでしょうか。

そのような歴史を経て、現在のマレーシアでは多宗教が混在しながらもそれぞれがそれをうまく認め合って暮らしています。そして、それはマレーシア国民に限らず外国から移住をしてきた人達も同様で、それが外国人にとってマレーシアが居心地良い、暮らしやすいという印象を持つ理由のひとつにもなっています。

【マレーシアの経済成長の起爆剤となったルックイースト政策】

イギリスからの独立を果たして以降のマレーシアはその後いくつかの段階を経て、徐々に経済成長を加速。
2019年にはマレーシアの一人あたりのGDPがUSD11,213(約120万円)となり、クアラルンプールを中心とした鉄道網などのインフラ整備も急速に進んでいます。

その現在の経済成長のきっかけとして最も大きな要因と語られるのが、1981年に首相に就任した、マハティール氏が当時推し進めた、ルックイースト政策です。

マハティール氏は西洋ではなく同じアジアの国に成長モデルを求め、当時アジアの国で先進国に躍り出ていた日本の成長モデルに注目。

その成長モデルを習得するため、さらには将来の人材育成の一環として優秀な若いマレーシア人達の日本留学を国として全面的にサポートしました。この政策によって、日本で学んだ多くのマレーシア人が双方国の架け橋として活躍できる優秀な人材に成長し、マレーシアの経済発展を担っていくこととなりました。

また、このルックイースト政策導入によって日本の製造・建設企業によるマレーシア進出も一気に加速。日系企業とマレーシア政府や企業がパートナーシップを結ぶことが経済発展への一端を担ったことはもちろんですが、それだけではなく、マレーシアでの日本企業や日本人への好意的なイメージが定着したことも添えておきます。

【急成長を続ける平均年齢が若い国マレーシア】

1981年から約40年の時を経て、現在では「ASEANの優等生」と呼ばれるほどにまで成長した、政治と経済の両方が安定した国マレーシア。

マレーシアを訪れたことがない方は、一体どんな国なのだろう?日本と比べて環境や暮らしやすさはどうなのだろう?と思われる方も多いようですが、マレーシアを一度訪れると、その不安は拭われること間違いなしの発展ぶりです。クアラルンプールは高層ビルが立ち並んでいて、ショッピングモールやレストラン、レジャー施設など、どこに行ってもとにかく人が多く活気に溢れていて消費活動も活発に行われている様子が伺えます。

マレーシア パビリオン

少子化が進む日本とは相反し、高い出生率を記録し続けている現在のマレーシアは20~30代の若い世代が人口構成の最も厚い層となっています。まだまだアクティブな層が多い時代が続き、経済成長のさらなる加速、そして発展が見込まれていますので、今後マレーシア国内の様々な設備や環境がさらに急スピードで充実し、整っていくことは容易に想像がつきます。

また、国の経済発展とインフラの整備が加速することで外国からの移住者の評価も上昇。様々な意味で暮らしやすい国として世界中から注目され、さらに移住者の増加も見込まれています。国としてもそれに応えるように、外国人が魅力を感じるような高い教育を提供できるインターナショナルスクールの積極的な誘致や、特に首都圏では公共交通機関を充実させることにも力を入れていて、今後はクアラルンプールやその郊外であれば電車で行けないところはほぼなくなるまでに、鉄道の大規模整備が進められています。

失速の雰囲気が感じられないマレーシアの経済発展。特にクアラルンプールなど主要都市は訪れるたびに新しいビルが増えていると言っても過言ではなく、町の景色の変化が早いのが現在のマレーシアの状況です。

マレーシアの歴史,クアラルンプール

【マレーシアの成り立ちまとめ】

発展を続けるマレーシアの今と、そこに至るまでの大まかな歴史をひも解いてみました。今後間違いなくアジアの中心となっていくマレーシア。

新しいビジネスの場としても、そして移住先としても目が離せません。
また、マレーシアでは不動産投資も非常に人気です。

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