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歴史で学ぶ世界遺産都市マラッカの魅力!寛容な多民族都市ができるまで

マレーシアの首都クアラルンプールから南へ約150kmに位置する海辺の町マラッカ。

2008年に「ユネスコ世界文化遺産」として登録されたこのマラッカは、多民族国家であるマレーシアの中でも極めて多民族で多様な文化が混在し、異国情緒あふれる雰囲気が漂う町です。

その独特な雰囲気はマラッカが重ねてきた波乱の歴史に由来しています。というわけで、今回は観光スポットとしても大人気の町マラッカの歴史について、そしてマレーシアという国が成り立つ過程でのマラッカの重要性についてもひも解いていきます!

【マラッカの歴史概略~繰り返された他国による統治~】

最初に、マラッカの歩んできた歴史の概略をご紹介。まだ「マレーシア」という国家が誕生する前の「マラッカ王国」と呼ばれていた時代からマレーシアが独立に至るまでの、マラッカの歩みをおさらいします。

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1396年  マラッカ王国成立。現在のインドネシア・スマトラ島パレンバンの王族がマレー半島に渡来し、後のマラッカの土台となるマラッカ王国の建国を宣言。

1405年  現在の中国となる明の永楽帝の命令により、海軍大将「鄭和」がマラッカへ。朝貢交易が始まり、港が賑わい始める。

1414年  当時の国王、パラメスワラ国王がイスラム教に改宗、同時にイスラム教を国教に定める。これを機にマラッカ王国はアラブ圏との交易が盛んとなり香辛料や陶器などの貿易中継港として繁栄が始まり、同時にマレー半島へのイスラム教布教も徐々に広がっていく。

1511年  マラッカ王国が陥落し、ポルトガルの統治下に。当時のマラッカ国王はマレー半島南に逃れジョホール王国(現在のジョホール州の一部)を成立後、イギリス支配下となる18世紀まで国は存続。マラヤ連邦として完全独立後の現在、その末裔はジョホール州のスルタンとして復権している。

1641年  オランダの統治下に。

1824年 イギリス・オランダ協定が締結。これによりマラッカ海峡をはさみ東のマレーシアはイギリス領、西のインドネシアはオランダ領となる。

1896年  マラッカを含むマレー半島全体がイギリスの統治下に。

1941年  日本軍の統治下に。

1945年  再びイギリスの統治下に。

1957年  マラヤ連邦が完全独立を達成。(マラッカはその一部に含まれる。)

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「概略」としてご紹介しましたが、それでも十分に濃い歴史と感じる内容ですね。

マラッカが幾度にも渡って他国の統治下となっていた事実は現代となっては賛否色々あるでしょうが、文化の形成という面ではこの繰り返された統治が多民族・多文化を色濃くさせていった理由の一つと言えるでしょう。

では、ここから先はこの歴史概略に登場をしている出来事のいくつかをピックアップ。その重要性とともに、マラッカで多くの人が訪れる歴史的観光スポットもご紹介します!

【マラッカが歴史の表舞台に!明の海軍大将「鄭和」の存在】

1405年に始まった永楽帝による鄭和艦隊のマラッカ寄港。位置的に補給基地として重視されたことがきっかけでしたが、この鄭和の寄港からマラッカは東南アジアで最大規模の貿易拠点としての成長の道を歩み始めます。

現在も人々の祈りの場として愛されている、マラッカ中心地の中国寺院「青雲亭(チェンフーンテン)」(Cheng Hoon Teng Temple)。

この寺院は、その鄭和の功績を称えて1645年に建立をされたマレーシア最古の中国寺院です。

【マレー半島で存在感を見せたマラッカ王国全盛期】

貿易港として急速に発展を遂げたマラッカ王国が最も繫栄を極めたと言われているのが1400年代。交易品を中心に、経済が潤うマラッカにはマレーシア各州から民族衣装やアクセサリーなどの装飾品、刀剣や銃などの武器、そしてイスラム布教とともに広まり始めたイスラム関連の品々が豊富に集まりました。

その最盛期に建立された王宮が、この「マラッカ・スルタン・パレス」(Melaka Sultanate Palace Museum)です。

実はこの建物、当時の建立はセントポールの丘の上にありましたが、ポルトガルがマラッカ王国を占領した際に残念ながら破壊されてしまいました。

当時の建築技術としてはとても高度と言われた幅74メートルで三階建ての木造高床式で、なんと釘が一本も使われていない建物。現在はその建築スタイルまでも含めて忠実に復元され、当時のマラッカ王国の栄華を象徴する1300点を超える展示品、そして歴史も学べる文化博物館として生まれ変わっています。

【マラッカ王国陥落。ポルトガルの統治下へ】

1511年、繁栄を極めていたマラッカ王国に列強諸国の力が及び始めます。東西貿易の重要拠点に成長していたマラッカ王国の利益を独占したいポルトガルの攻撃を受け、陥落。ポルトガルの統治下に入ることとなります。

この際、冒頭の概略にも記載した通り当時のマラッカ国王はジョホールに逃れ、現在のジョホール州の一部となるジョホール王国を成立後、イギリス支配下となるまでは存続していました。そのためマラッカは滅亡したわけではなく、あくまで陥落して統治支配となったということになります。

ポルトガルが統治と共に建設したのが、正式名称「エー・ファモサ」(A Famosa)、通称「サンチャゴ砦」です。

この砦が築かれた当時は、なんとこのすぐ近くまでマラッカ海峡の海が広がる地形でした。現在は埋め立てによりその海岸線は遠い先となっている今のマラッカと比較すると、驚きを隠せませんね!

そんな海辺に築かれたこの砦は、主にオランダ軍を中心とする敵からの攻撃を防ぐためこの地に欠かせない城壁でしたが、その後イギリス統治時代に取り壊され、現在は破壊を免れた石造りのこの門のみ残されています。

【民族・文化混在への道を歩み始めたマラッカ】

 

そしてこの時期あたりからマラッカは、現在の多民族、多文化が極めて濃く混在する町となる要素が表れ始めます。

先ほどご紹介したサンチャゴ砦から裏手に続く小高い丘を登ったところにあるのが、「セントポール教会跡」(St. Paul’s Church)と「宣教師フランシスコ・ザビエル像」(Francis Xavier Statue)です。

ポルトガル統治下により、マラッカは貿易の重要中継地に留まらず、新たにアジアにおけるキリスト教(カトリック)の布教活動拠点というキーを持つ土地となったのです。

すでにご説明済みですが、もともとマラッカ王国時代にはイスラム教を信仰する土台も築かれていました。もちろんキリスト教の活動拠点ができたからと言って他信仰が一切なくなるわけではありません。徐々にこのマラッカに多数の民族が流入し、それぞれが信仰や文化を広めて混在していく、という流れが出来上がっていきました。

時期を同じくして、この頃から徐々にプラナカンと呼ばれる人達も生まれ始めます。彼らの文化の最盛期はもっと後となりますが、その歴史はこの頃から始まっており、中国からマレーシアに移り住んだ男性がマレーシア先住の女性と結婚し生まれた男の子を「ババ」、女の子は「ニョニャ」と呼ぶようになります。プラナカンも同じ意味で使われる言葉です。

このようなニョニャの女性達が纏う美しい衣装「クバヤ」の創作も徐々に開花。今ではマラッカを代表する貴重な文化の一つとなっています。

【オランダ統治下のマラッカで一気に加速した多文化共存】

1641年、マラッカの支配はポルトガルからオランダへと移ります。西洋の列強国からの支配が続くことから見ても、国内外でマラッカという場所がマレー半島の中で重要な位置づけになっていたことは、すでにお分かりでしょう。

このような歴史を経たこの頃から、マラッカの町では多民族、多文化の共存が当たり前になるように。その象徴とも言えるのが、この通称「ハーモニー・ストリート」と呼ばれる通りです。

このハーモニー・ストリート。なんとこのTukang Besi通りからTukang Emas通りに続くわずか300メートルの間に、マレーシア最古となる1781年建立のヒンドゥー教寺院、1748年建立のイスラム教モスク、そして先ほどご紹介した青雲亭が並んでいるのです。

このようにいくつもの異信仰の寺院がここまでの近距離に並ぶことは世界中を見渡してみても珍しい光景で、その懐の深さも感じさせる文化の混在を「ハーモニー」という言葉で表現しています。

また、これはマラッカ州では当たり前に目にするイスラム教のモスクの姿ですが、実はこのような三角屋根のモスクはマレーシアの他の地域ではあまり目にすることはありません。

マレーシアでも他国のイスラム圏においても、モスクの屋根はドーム型が一般的。(もちろん様々なデザインがありますので例外はあります。) ところが、ここマラッカではこの三角屋根のデザインが主流となります。

これは「スマトラ屋根」と呼ばれるデザインで、世界ではマラッカ以外にインドネシア・スマトラ島で同じような三角屋根のモスクを見ることができます。なぜ、一般的な屋根と違うデザインなのか?その所以は先出している、マラッカがイスラム教を正式に国教と定めた1414年にまで遡ります。

当時、現・中国である明と交流があったことで中国式の建築や設計が伝わったとされることから、その頃の明で主流となっていた様式を積極的に取り入れた結果と言われています。それは当時マラッカと同じように明と交流があったインドネシア・スマトラ島でも同じくです。

そして、その後マレーシア全土にイスラム教が広がりドーム型のモスクが主流となる中でも、マラッカは独自の文化で進化を遂げ、現代ではその三角屋根は一つの文化として確立しています。

【マレーシア国家創成期にも影響力を発揮したマラッカ】

オランダ統治の後のマラッカは、1896年にマレー半島全体がイギリス統治下となり、日本軍による統治も経た後、最終的に1957年にマラヤ連邦として完全独立を達成しました。

なお、歴史上のマレーシア(マラヤ連邦)の独立記念日は1957年8月31日ですが、実はその約一年半前となる1956年2月20日、イギリスと結んだ独立条約を発端に初代首相となるトゥンク・アブドゥル・ラーマン氏が独立宣言を行ったのがマラッカでした。この歴史的事実からも、マラッカが国の方向を決定する大事な場所であったことを伺い知ることができます。

先にご紹介しているプラナカンの人達は1800年代後半から1900年代にかけて巨額な富を築いたことで知られていますが、その彼らの功績を知ることができるのが通称ヒーレンストリート(Heeren Street)、正式名称Jalan Tun Tan Cheng Lockの豪華絢爛な豪邸群です。

このヒーレンストリート出身者にはマレーシアの政治や経済に大きく影響を与えた人物もいることで知られています。

地理的要因のみならず、人的要因でもマレーシアの国家創成に多大な影響を与えていたとも言える、マラッカの町の一面もご紹介しました。

【マラッカの歴史まとめ】

マラッカの歴史、そしてその歴史がマレーシアという国に与えてきた重要性について掘り下げてご紹介しました。

長い統治の歴史の中で多様な文化を受け入れ、そして見事に調和させていったマラッカの町とそこで暮らす人々。その長年に渡って培われた風土、そして地理的利点が国に与える影響は大きく、それはマレーシアの一つの州となった今もマラッカが注目され続けている大きな理由と言えるでしょう。

今回マラッカの歴史とともにご紹介した観光スポットも、今までと違う視点で見てみると楽しみ方が変わってきそうです。ぜひ、この記事を片手に再びマラッカを訪れてみてください。

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